福祉との出会いからサンガーデン鞍手設立まで

『社会福祉法人鞍手ゆたか福祉会のルーツ』(2005年9月執筆)

福祉との出会い《昭和51年~53年》

私は、高校2年のとき、生徒会執行部に入ることになりました。私はそこで、千々和君という友達に出逢いました。彼は、文芸部に所属し詩を書いたりしていました。彼の影響で、私は、図書室で何げなく詩集のコーナーを見ていました。そして、偶然手に取った本が、『車椅子の青春』という詩集です。パラパラと立ち読みし、知らなかった世界が目の前に拡がりました。その詩の内容に大きな衝撃を受け、私はその場で泣いてしまいました。
初めて聞く言葉「進行性筋ジストロフィ」(通称「筋ジス」)。生まれて成長していくにしたがって、徐々に身体中の筋肉が弱っていく病です。最初は、元気に走り回っていたのに、走れなくなる。そして、次第に歩けなくなる。車椅子での生活が始まり、徐々に内臓の筋肉まで機能しなくなり、寝たきりの状態になり、死に至るという難病です。
その病気を持っている人達自身がベッドの上で、病と闘いながら詩を書いています。自分は20歳ぐらいになると多分死ぬとわかっているのに、今を一生懸命に生きようとするはじけるような熱い思いが私の胸を打ちました。彼らに比べて、自分自身は、五体満足に生まれ、何不自由なく育ってきたのに、彼らほど熱く生きていない。そんな詩に触れて、「私は一体何をやっているんだろう」と自分自身を問い返したのです。
彼らのために何かをしたい。そう思って、部室のドアをノックしたのが、「社会福祉研究部」です。そこで、「手話」や「点字」に出会い、「盲学校」や「知的障害児施設」に遊びに行き、こうして私は福祉と出逢いました。その年の文化祭で、生徒会執行部が主催した模擬店で得た収益は、私の提案で、その全額を筋ジスの施設「ありのまま舎」に寄付をしました。
高校卒業後の進路を考える時期が来ました。父が技術屋で、機械設計をやっていた影響もあり、どちらかというと理数系の方が好きだった私は高校では理系クラスに所属していました。大学は理工学部あたりに行こうと思っていました。しかしこの経験をきっかけに、進路は迷わず、福祉大学に行きたいと思いました。当時は今と異なり、福祉系大学など全国にほとんどなく、名古屋の日本福祉大学と東京の日本社会事業大学のみでした。自分は、そのどちらかに行きたいと思いました。それを聞いた両親や親戚一同は、「福祉は苦労する」「貧乏する」と猛反対しました。しかし、我が儘を押し切ってその2校を受験しました。残念ながら受験は失敗しました。私は浪人し、予備校で福祉を目指して勉強しました。そして1年後、無事、日本福祉大学に合格し、晴れて日本福祉大学の学生となりました。

日本福祉大学での生活《昭和54年~56年》

日本福祉大学(通称「にっぷく」)での4年間は、私の仕事の原点です。今は、愛知県知多郡美浜町にあり、広大な敷地に立派な校舎がそびえていますが、私たちの時代は、名古屋市昭和区の「杁中(いりなか)」という場所にありました。学校の敷地の広さは、普通の中学校ぐらいの小さな大学です。しかも、開学からすでに30年も経過しているため建物はボロボロでした。しかし日福大は、その歴史の中で学生自治会と教授会と教職員組合との三者自治が確立しており、当時京都の立命館大学と並んで、日本の中で屈指の民主的大学と評価されていました。日福の伝統は、「自由に学ぶこと」「弱者の立場に立つこと」「人を大切にすること」ではないかと思います。そんな環境で、4年間を過ごせたことは、本当に幸せだったと思います。私は、その環境の中で、ゼミ、サークル、下宿生活を中心に生活しました。
ゼミは、1年次は、クラスで「男と女」というテーマを選び、「男は仕事、女は家庭」という考え方は是か非かというような話を1年かけて議論しました。その中で、それまでの私の「妻は家庭で夫の仕事の帰りを待つべき」という考え方は、真反対に変わりました。2年次のゼミは、カール・マルクスの「経済学哲学手稿」の勉強をしました。3、4年次は、社会学の那須野隆一教授のゼミに所属し、社会教育論について学びました。卒業論文のテーマは、「東京中野区の教育委員準公選制度について」でした。
サークルは、「島田一ッ山セツルメント」に所属し、名古屋市天白区の島田一ッ山という地域に毎週土日に行き、日曜日は、小学校3、4年生を対象に、「実践」と称して、公園に子どもたちを集めて集団遊びをしていました。毎週土曜日は家庭訪問(通称「かほう」)で、子どもたちの家に行き、子育ての悩みや地域の抱える問題などについてお母さんたちと話していました。平日は、「実践討論」(通称「じっとう」)を中心に行い、日曜日の実践をレポートにまとめ、集団に入れない子への働きかけなどについてグループで意見交換をしていました。討論のポイントは、その子の課題を、社会の問題、学校教育の問題、地域教育力の問題などと関連づけてとらえるということでした。今考えると、おそらく未熟で短絡的な分析をしていたと思いますが、そのような観点を学べたことは、今の自分にとって、とても大きな意義があったと思います。セツルメントの学生は「セツラー」と呼ばれており、私たちセツラーは、その過程で分析力を高めたり、ものの見方考え方を学びました。また年度末は、活動の総括をするために、民宿を約1週間借り切って、実践、大学活動、新入セツラーへの指導、学習調査活動、組織執行部活動などについて議論し、それを文章化し、総括文集を完成させました。この議論を通じて、先輩セツラーから、厳しい指摘を受け、様々なことを学びます。また、文章化では、先輩から赤ペンで細かく文章添削(通称「ぶんてん」)され、文章の書き方を学びました。
私の大学生活は、まさに、セツルメントに始まり、セツルメントに終わった4年間だったような気がします。本当に、多くの学びをいただきました。ちなみに、島田一ッ山セツルメントは、大学移転の数年後に残念ながらつぶれてしまいました。やはり美浜と名古屋は毎週土日に行くにはかなり遠い距離なのです。今、日福のセツルメントは、「ヤジエセツル」、「井戸田セツル」、「トロッコセツル」の3つとなりました。
下宿生活は、北海道出身の湯浅君と4年間一緒に暮らしました。彼とは、ふすま越しで生活していました。会社の寮の間借りで、寮母のおばちゃんが朝晩のご飯を作ってくれていました。彼とは、人生のこと、友情のこと、仕事のこと、福祉のこと、恋愛のこと、音楽のことなど、毎晩安酒を飲みながらホントにいろいろことを語り合いました。これも青春の最高の思い出です。彼は今、函館の病院のMSW(医療ケースワーカー)として、働いています。

就職活動《昭和57年》

セツルとゼミに没頭した3年間を過ごし、4年になりいよいよ就職活動の時期になりました。私は、大学時代、障害者の人と接した経験はほとんどなく、養護学校教員免許所得のために知的障害児養護学校で2週間教育実習をした程度でした。しかしその経験は、私の進路を決定づけました。実習を通じて、私は知的障害の人達の純粋さややさしさの魅力のとりこになりました。それで私は、養護学校の先生になろうと思い教員採用試験を受けました。しかし、残念ながら採用に至りませんでした。それで、知的障害者の施設に就職しようと、秋から地元のあちこちの施設を見学したり実習したりしました。
そんな頃、田川市にちょうど私の卒業する春に開設する施設から、日福大に求人案内が来ているのを見つけました。そこで、早速、その知的障害者入所施設の採用面接を受けました。結果は、残念ながら不採用でした。しかし、どうしても、新しくオープンするその施設を一から作り上げる苦楽を体験したいと思い、不採用通知を持って、理事長に直談判に行きました。「八幡から毎日3時間かけて通勤します。どうしてもこの施設で働きたいのです。きっとこの施設のお役に立ちます。頑張りますので、どうか採用して下さい。」無我夢中で頼み込みました。その法人の事務長が日福大の3年先輩の方で、その方の後押しもあり、数日後、理事長名の「採用通知」が送られてきました。私は感激し、理事長とその先輩に心底感謝しました。そして、この施設を私の力で日本一の施設にしようと心に誓いました。

入所施設の指導員《昭和58年~平成2年》

晴れて施設の指導員になりました。入居者は50人、職員は24人の施設。今から20年前のことで、福祉施設自体、今よりも随分少なく、施設職員といっても、マイナーなイメージが強く、「自ら苦労を背負って立つ物好きな人」と思われる時代でした。福祉系大学も全国に数えるほどしかなく、福祉系専門学校は、皆無の時代でした。当然、施設職員も、専門の勉強をした人など希有の存在でした。この施設も、私と日福大の3年先輩の事務長以外は、全員福祉とは畑違いの人でした。
素人集団のこの施設を何とか押しも押されもしない立派な施設にしたいと思って最初に取り組んだのは、集団づくりと基礎的な勉強会でした。幸い新規開設施設のため、先輩後輩がなく、年齢は違えども、経験では横一線のスタートです。職員の中では最も若い部類に入る23歳の私でしたが、何人かの有志と月1回の「勉強会」を立ち上げました。テキストは、日本知的障害者福祉協会発行の『はじめて施設に働くあなたへ』で、福祉の基礎の基礎を勉強しました。また、私は全障研のサークルにも所属していたため、そちらから紹介された文献も学習しました。こうして少しずつ、障害者の「シ」から理解できるようになりました。 また、現場では、土日の自由外出や、施設外作業(企業出向)の取り組みなども取り入れ、「できる限り管理のない生活」と「施設内で完結しない暮らし」を目指しました。私の所属する作業班では、半年に1回総括文集を出しました。それを『月刊愛護』(現『AIGO』)の「実践報告」というコーナーに掲載されたこともありました。幸い、その施設は、自由闊達な雰囲気があり、私も、水を得た魚のように、伸び伸びと自分のやりたいことを自由にやらせていただきました。何しろ、職員集団がとても仲が良く、明るい職場でした。職員は皆5年間をガムシャラに働きました。そして基礎ができました。また、「施設外実習に積極的に取り組んでいる施設」「自由で明るい施設」と、社会的な評価も高まりました。目標をほぼ達成し、次の新たな目標を考えていた私は、その頃、「あくまで、雇われの身ではやれることに限界がある」と気付きはじめていました。もっと進んだことをやるには、自分が施設の経営者になって自由に運営できる立場になるしかないと思うようになりました。私は、自分で施設を作ろうと思い立ち、施設の認可申請の準備を始めました。そして、7年勤めてこの施設を退職しました。日福大で福祉の基本を学び、この施設でその考え方を実践し、ゼロから試行錯誤で作り上げた体験と自信が、今の自分の確かな基礎になっています。

通所施設の建設候補地選び《平成元年~2年》

施設の建設など、雲をつかむような話で果たして可能なのかを含めて、まず情報収集することから始めました。施設を開設した人に会って話を伺い、本を買って読みました。その結果、通所施設を作る場合のハードルは次のとおりです。
①600坪以上の土地を確保すること。
②2000万円以上の自己資金を確保すること。
③建設地の地域の同意を得ること。
④政治家や地元の有力者などの応援があること。
「お金はない、信用もない、力もない」、ナイナイづくしの弱冠29歳の私には、あまりに無謀な挑戦であることがわかりました。しかし他に道はないから駄目元でトライすることにしました。次に考えたことは、どこに施設を作るかです。判断基準は2つありました。
①都会は土地が高いから、土地の安い郡部で、なおかつド田舎ではない場所。
②県の認可のとりやすさと、地域の既存の福祉団体とのトラブルを避けるために、未だに施設や作業所がひとつもない地域。
早速、福岡県の知的障害者施設名簿と福岡県の白地図を調達して、白地図に既存の施設のある場所にマジックで印を付けていきました。すると、県内の市郡で、知的障害者施設が皆無の場所は、県南地域の某郡と鞍手郡の2ヶ所だけということがわかりました。私は、土地勘が多少はある鞍手郡を建設候補地のターゲットに決めました。
そこで鞍手郡についていろいろ調べてみると、郡内には何年も前から地道に活動しているいくつかの障害者小規模作業所があることがわかりました。そんな地域に落下傘で、施設を作ることは、絶対にやってはならないことです。幸い、鞍手郡4町のうち、1町だけは、そういった活動が全くありませんでした。そこで私は、その町、「鞍手町」で施設建設を目指すことにしました。

法人設立審査調書提出《平成2年》

平成元(1989)年7月、初めて鞍手町を訪れました。目的はふたつ。ひとつは、地域住民運動として施設を建設するために、地域の手をつなぐ育成会と連携をとること。ふたつめは、来年5月末日までに「法人設立審査調書」を提出するために土地を確保し、地元の承諾を得ることです。
早速、私は、「鞍手町手をつなぐ育成会」(知的障害者親の会)の会長を訪ね、「利用者を主体とした施設を作りたい」「どんなに障害が重くても、希望する人は誰でも受け入れる施設を作りたい」と趣旨を話しました。すると、会長は大いに賛同して下さり、早速、総会の場を設定してくれることになりました。そこには、8名の保護者の方が、出席して下さいました。私は、力を込めて、どんな施設を作りたいのか、夢を語りました。すると、保護者の方々は、「通所施設の建設は、みんなの願いでした。全面的に協力させていただきます。」「将来的には、親亡き後のために入所施設の建設を目指しましょう。」後に、この親の会が、施設建設のピンチを救ってくれることになります。一方、私は、鞍手町内を車で走り回り、施設建設用地探しを始めました。鞍手町内は、田舎なので土地はたくさんありますが、町内に知人もおらず何のツテもない自分としては、「売地」の看板を見つけることぐらいしか方法はありませんでした。町中を走っていると、1件だけ「売地」を見つけました。450坪。ちょっと狭いけれども、2階建てにすれば建たないことはない。値段は坪1.5万円と破格の安値。この土地で行こうと決めました。それで、その土地の地権者、地元の区長、組長、隣接地権者などにお会いし、趣旨を説明させていただきました。休みの度に、何度も地域に足を運び、たくさんの人に会ってお願いし、常会を開いていただいたり、説明会をさせていただいたりしました。平成元年7月から翌年の4月末まで10ヶ月間粘りましたが、結局、施設建設についての地元の同意は得られませんでした。
申請の締切日まであと1ヶ月しかなくなりました。親の会と対策を話し合い、町長に相談しようということになりました。5月6日(金)、鞍手町親の会数名と私とで、町長に面会に行きました。親の会の方々と私は、これまでの経過を話し、「施設を建設したいのですが、どうしても地元の同意が得られません。書類提出期限は今月中です。時間がありません。何とか力を貸して下さい。」とわらをもつかむ思いでお願いしました。町長は、私たちの話に真剣に耳を傾けてくれました。週明けの5月9日(月)、町長から私に直接電話がありました。「施設建設に良さそうな土地がありますが、現地を見に来ませんか。」というお話でした。私は、興奮して、「行きます。是非、その土地を見たいです。」と言って電話を切りました。 翌日、親の会の会長と私とで、8時半に町長室にお伺いしました。町有地で600坪、しかも県道沿いです。地価も、予算内でした。町長、助役と一緒に土地を見に行き、私たちはすぐに気に入りました。私は即、「是非、この土地に施設を建てさせて下さい」とお願いしました。すると、町長は、「それでは、今日の夜7時に公民館に来て下さい」とおっしゃいました。
公民館に行くと、約20名の人達が集まっていました。地元の人達と役場の人達です。役場からは、町長、助役、収入役、住民福祉課長、福祉係長、総務課長、管財係長などがずらりと並んでいました。そこで私は、施設整備計画の概要説明などを行いました。すると、地元の方々から、「知的障害者の人達は、迷惑をかけないのですか」などの質問がいくつか出ました。私は、ひとつひとつの質問に丁寧に答えましたが、地元の人達にとって、知的障害者といってもどんな人達なのか、ほとんど知らないのが現状なので、不安を取り除くことはできず、話し合いは決裂しそうな雰囲気になってきました。その時、町長が、「どうか皆さん、施設の建設に同意して下さい。何かあったら私がすべて責任を取ります」と力強く言いました。その一言で、地元の人達は、「町長がそこまで言うのなら」とついに同意して下さいました。福祉係長と管財係長は、すぐに、関係者に「施設建設同意書」を配り、その場で、区長、水利権者、隣接地権者の同意書への署名捺印が行われました。こうしてわずか数日のうちに土地問題が電撃的に解決しました。その土地が、現在の「鞍手ゆたかの里」の土地です。私は、急ピッチで書類作成をして、どうにか平成2(1990)年5月末日、福岡県に「法人設立審査調書」を提出することができました。

小規模作業所の開設《平成3年》

県に「法人設立審査調書」を提出すると、早速、7月上旬に「ヒヤリング(事情聴取)」の日程通知が来ました。ヒヤリングでは、県の担当者より、事業内容等についての質疑があり、修正点などについての指導を受けました。その後、9月上旬に、県より、「鞍手ゆたかの里を、平成3年度国県補助協議の対象とする」との通知がありました。当時は、県が協議対象にするということは、ほぼ間違いなく厚生省の内示をいただけるということでもあり、この時点で、施設の開設は確定となりました。そこで、施設で働きながらこれから施設開設業務を行っていくのは不可能に近く、また、施設がオープンする前に、無認可作業所を開設し実践の基盤を作っておきたいとの思いもあったため、平成3年3月で、施設を退職することにしました。
施設開設予定日は、平成4年4月。その1年前の平成3年4月に、施設開設地の近くにプレハブ小屋を借りて、小規模作業所「鞍手ゆたかの里」を開設しました。鞍手町に初めての障害者作業所の開設ということで、新聞各紙も筑豊版で大きく取り上げてくれました。作業所の利用者は、3人から5人。職員は、私ひとりで、作業所で紙粘土のブローチを作ったり、アルミ缶を回収してつぶしたり、キュウリやヘチマを植えて育てたり、散歩に行ったりして、1年間を過ごしました。毎月生協の朝市にバザーで手作り小物や野菜などを出したりもしていました。と同時に、それらの実践と並行して、施設の運営方針や授産作業を研究したり、職員の採用試験をしたり、職場の規程を作ったりと、施設開設に向けた諸々の業務を行いました。現在、私の片腕となって現場を統括してくれている法人本部の福原氏は、この作業所開設の新聞記事を見て、ボランティアをしたいと電話をかけてきたのが出会いのきっかけです。私は施設を退職して無収入となりました。それで、夜の9時から夜中の2時までの生協の仕分け作業のバイトをしながらわずかなバイト料で生計を立てていました。今では懐かしい思い出です。

鞍手ゆたかの里の開設《平成4年~5年》

平成3年度、私は、小規模作業所を運営しながら、設計士と建物の設計について詳細の打合せと建設自己資金作りに奔走しました。建設自己資金は、最終的には、父の退職金からの寄付金、実家を担保にした銀行借入金、社会福祉医療事業団からの借入金で、合計8千万円を調達し賄いました。5500万円の借入金は、現在もコツコツと返済中で、約半分に減りました。新しい施設の施設長は、鈴木さんという方にお願いしました。鈴木さんは、小学校の先生を定年退職して5年が経っていました。教員時代は、特殊学級の担任をしていた時代が十数年あり、とても障害児教育に熱心な先生でした。退職後は、直方市社会福祉協議会の副会長や直方市ボランティア連絡協議会の会長など、福祉活動を積極的にされていました。障害者福祉の面では、地域のリーダー的存在で、気さくで陽気な鈴木先生は、子どもたちや親御さんから絶大の信頼を得ていました。私は、施設建設を思い立ったときから、施設長は鈴木先生にお願いしようとひそかに考えていたので、認可の内示が下りるとすぐにお会いし、どんな施設を創りたいかなど夢を語り、「是非、施設長を引き受けて下さい」とお願いしました。すると、先生は、「私で良ければ力になりますよ」と快く引き受けて下さいました。こうして、施設長は鈴木先生、事務長が私、主任指導員が福原氏と最強のトライアングルが決まりました。法人認可にあたって理事会を組織する必要がありました。理事長が父、理事は、鞍手郡4町の各手をつなぐ親の会会長4名、地域の代表の地元区長、施設長の鈴木先生、そして会社を経営している私の叔父です。理事は、以上の8名でスタートしました。
秋には、職員採用試験を行いました。指導員は福祉に関する専門試験、調理員は栄養・調理に関する専門試験、そして小論文と面接。指導員は、約30名の応募者の中から採用者は2名、調理員は、20名の中から2名が採用決定しました。
ゆたかの里は、施設長の鈴木先生、事務長の私、主任指導員の福原氏、指導員のSさんとKさん、調理員平山さんとMさんの合計7名のスタッフでのスタートでした。この7名のチームワークと情熱が、今の鞍手ゆたか福祉会の基礎を創りました。今思っても、みんなしっかりしていて、明るくて、前向きで、ひたむきで、最高のメンバーが集まったと実感しています。ケンケンガクガクの議論をしたり、夜中まで残ってみんなで授産の仕事をしたりと、きつかったけれども本当に充実した楽しい毎日でした。今思えば、右も左もわからないような若くて未熟な者同士が、利用者のために一生懸命に頑張る姿、しみじみ懐かしく思い出します。
ちなみに、鈴木先生は、5年後に70歳を迎え、後進に道を譲りたいと施設長を勇退され、私と交替しました。当法人の基礎を創って下さった鈴木先生は、評議員として、現在も当法人を支えて下さっています。

入所施設のあり方検討スタート《平成6年》

ゆたかの里がオープンして2年間は、毎日がてんやわんやの大騒ぎでした。授産施設なのに作業室に誰もいない、5分座ったと思ったらすぐにどこかへ出ていく。職員は、利用者を追いかけ回すのが日課のような毎日でした。それでも3年目ぐらいからようやく利用者も落ち着き、軌道に乗ってきたのかなという印象を受けました。ゆたかの里の保護者の方々も、ゆたかの里が落ち着いてきてようやく安心したのか、保護者会で「これからは入所施設作りの運動を始めましょう」と盛り上がっていました。私も、設立時からいずれは入所施設を作らないと親御さんは安心できないから、ゆたかの里が軌道に乗ったら入所施設作りに奔走しようと考えていたので、まずは土地探しから始めました。入所施設を建てるには、運動場や駐車場を含めて1千坪の土地が必要になります。いろいろな人にいい土地がないか聞いて廻りました。そして、1年後の平成7年に1600坪の土地が見つかりました。鞍手町の中心部で、田んぼを挟んで向こうに鞍手町役場のある田園風景に囲まれたとてもいいところです。近所の民家は、近すぎず遠すぎず、これほど施設にふさわしい土地があるだろうかというくらいいい土地でした。その土地は、事情があって、幸いなことに、かなり安い値段で購入することができました。もちろんお金は持ってないから銀行から借金しましたが、本当に安くいい土地を手に入れることができました。それから私は、具体的にどんな施設を作るかを考え始めました。
知的障害関係の「愛護」という月刊誌などを読み返しながら、これからの入所施設とは、どんな施設なのか、今の日本で先進的な入所更生施設とはどんな施設なのか、あちこちから情報収集しました。そして、辿り着いたのが、「小舎制」という言葉です。最近は、「グループケアユニット方式」とか、「小規模分散型施設」などとも言われますが、要するに、従来の箱型施設ではなくて、6人から10人ぐらいの小集団で1ユニットを作り、そのグループで、食事したり入浴したり、居間でくつろいだりできるという建物です。私は、以前の入所施設に勤めていたとき、やはり、大人数の集団生活は、管理的画一的になるので良くないと思っていたので、「これだ」と思いました。そして、2週間かけて横浜市(てらん広場)、山梨県(そだち園)、岐阜県(吉城やまゆり園)、滋賀県(かいぜ寮)などの小舎制施設の見学行脚をしました。そこでの様子は、「果たしてこれが入所更生施設なのか」と驚くほど家庭的で素敵な施設でした。私は、早速、知り合いの設計士にそのビデオを見せて、こんな施設が作りたいんだと話しました。私も、とにかく毎日自分で間取りの絵を描いて、設計士とファックスで意見交換するのが楽しくて仕方ありませんでした。そして、ようやく図面ができあがりつつあったころに、驚くべき情報が飛び込んできました。それは、欧米では、20年も前から入所型施設が縮小、閉鎖されているということでした。アメリカに福祉視察に行った方の視察報告が雑誌に掲載されていたのですが、私はすぐにその人に電話で連絡をとり、外国の資料を送ってほしい、情報がほしいと依頼しました。すると、その方は、早速パソコンのフロッピー2枚を送ってくれました。それをプリントアウトするとA4サイズの紙で厚さ20センチにもなる膨大な資料でした。その中には、100本近くの欧米福祉の現状の論文が入っていました。その論文を書いた人は、慶応大学の冨安芳和教授という方でした。私は、むさぼるようにその論文を読みました。そして、欧米の施設の縮小閉鎖という情報が真実であるということを知りました。私は、入所施設を作るなんて、これからの時代に逆行するようなことはいけないことではないかと自問しました。そして、重度の障害がある人も施設を出て地域で暮らしているという信じられないような欧米の福祉の現状をこの目で確かめたいと思いました。日本では、重度の人は地域で暮らすことは難しいと思われているのに、どうすれば実際に暮らすことができるのかを勉強したいと思いました。

アメリカ福祉視察《平成7年》

そして、冨安教授が主宰する「ヒューマンサービス研究会」という会が、毎年アメリカに福祉視察に行っているということを聞き、幸いにも私も同行できることになりました。アメリカのバーモント州、ペンシルベニア州に10日間の日程で行きました。視察先では、自閉症の人も行動障害の人もグループホームで暮らしていました。中には、常時医療的介護の必要な経管チューブで栄養をとっているような人や寝たきりの人、日本だと重症心身障害児施設に入っているような人たちもグループホームで暮らしていました。また、ジョブコーチと呼ばれる人と一緒に会社やスーパーなどで重度の人たちが生き生きと働いている姿も見ることができました。私は、それらの姿を見て、障害の程度に関わりなく、どんなに障害が思い人でも地域で暮らすことは可能だと確信しました。私は、帰国後、施設を作るのはやめようと決心しました。そして、これからは、施設ではなくて地域で暮らす方法を探していこうと決めました。

入所施設づくりに納得《平成8年》

私は、職員や保護者に、「これからは入所施設の時代じゃない、いずれ近い将来、日本の入所施設も欧米みたいにどんどん縮小されて、最後には閉鎖せざるを得なくなる。だから、施設を作るのはやめる」と訴え続けました。私は、冨安教授を招いて講演会を開催し、世界の福祉の動向などについて詳しい情報を語ってもらいました。保護者の皆さんや職員にも聞いてもらいました。保護者の皆さんは、「言ってることはわかるけど、でも現実は、やっぱり入所に頼るしかない」とか「パニックや行動障害のあるうちの子が、地域でどうやったら受け入れられると思うの」と不安を隠しきれない様子でした。そんなとき、忘れもしない平成8年1月28日、保護者と職員の合同新年会が直方のスナックで催されました。新年会で、親亡き後の障害者の生活について話したとき、多くの親は、「確かに入所施設は隔離だし、問題をたくさん抱えている。でも、今の日本では、入所施設しかない。地域の中で、この子が支えられて一生過ごせるなら最高だけど、現実には不可能だよ。自分ももうすぐ60代になるのに、そんな時代が来るのを待ってはいられない。入所施設は良くないけれど、必要じゃないか」と言っていました。やはり、親というのは、年をとって自分の身体の衰えと闘いながら生きていて、現実に障害を持つわが子を抱えて「もし、今自分が病気で倒れたとき、明日からこの子を誰に預けてみてもらえばいいのか」と八方ふさがりで深刻に悩んでいました。現実問題であるだけに、悩み自体に重みがあって、理想論やあるべき論では、済まされない。私自身もそれに対して、アメリカの福祉を学んで如何にあるべきか、何をすべきかはわかっていても、現状を考えたとき、くやしいけれど、それが親には通用しない、明確に反論できないもどかしさがありました。地域の中で住民同士が支え合いながら暮らせていけば一番望ましいけれども、日本人というのは、何でも家族とか身内の中だけですべてを完結させようとします。また、よぽど親しい間柄でない限り、他人の家に干渉しようとしません。外に援助を求めることは、甘えだと考えて、周りの人に援助してほしいときでも自分自身でブレーキをかけようとします。十把一絡げで「国民性」という一言で片付けたくはありませんが、それが現実ではないかという気もします。私は、アメリカを見て、やぱり入所施設の建設は時代に逆行すると確信して「建設しない」と考えていましたが、このような親の悩みを聞くと、その考えはあまりにも短絡的ではないかという気がしました。私はその時、入所者が楽しく暮らせる、施設らしくない施設を、これまでにあるどの先進的な施設にさえも負けないようなすばらしい施設を作ることを決意しました。

毎年認可申請、夢は実らず《平成8年~11年》

その後、平成8年度から、毎年県に施設の認可申請を行ってきました。平成8年度は、入所施設の申請と、小規模作業所の法人化を同時に行おうと入所部30名、通所部20名の総合施設で申請しましたが、県の予算の関係などで認可されませんでした。その翌年の平成9年度は、入所施設の申請の受付がなかったため、30名の通所授産施設の申請をしましたが、それも残念ながら却下されました。次の平成10年度は、40名の入所更生施設を申請しましたが、この年も残念ながら落ちました。平成11年度は、入所施設の申請受付がなく申請できませんでした。

小規模完全分離型で認可申請《平成12年》

小舎制の施設といっても多くの施設は、それぞれのユニットが廊下でつながっており、結局は大型施設という形態がほとんどです。当法人も平成10年度の時の入所施設の申請図面は、小舎制ではありましたが、それはひとつの建物の中でユニットになっているということでした。本当は、完全分離型にするのが望ましいのですが、そうすると、管理上、それぞれのユニットに職員を配置しなければならず、結果、箱形施設より多くの職員配置が必要になります。しかし、平成12年度の申請にあたっては、これだけ毎年申請しても落ちるのであれば、ダメもとで、私は、どれだけ非合理で人件費がかかるような間取りであっても入所者ができる限り普通の暮らしをするために、何としても完全分離型でいこうと思いました。言いかえれば、入所更生施設という法律の枠組みで、グループホームを複数同時に作るということです。そんな計画を国や県が認めるのかはわからず、これはひとつの賭けでした。しかし、私としては、箱型の施設や、廊下でつながった小舎制施設を作れば、いずれ時代がその施設を縮小閉鎖するだろうと思い、それだったら何も作らない方がいいのではないかと考えたのです。完全分離型であれば、入所施設が縮小閉鎖されても、それをグループホームと名称を変えれば生き残れます。それが「サンガーデン鞍手」です。

8年目にしてようやく内示《平成13年》

翌年の平成12年の小規模完全分離型施設の申請も却下されました。平成8年度から申請を始めて5連敗です。ある保護者からは、「図面が悪いんじゃないの?そんな奇をてらうような計画では、県や国は、通したくても通せないから、普通の箱形施設の計画で申請した方がいい」というご意見もいただきました。保護者にとっては、何よりも認可が下りることが一番大事なことで、計画内容はその次のことだと思います。なぜなら、いろいろ考えても、認可が下りなければそれは単なる絵に描いた餅になってしまうのですから。私は、その方の意見に、確かにそれは十分に考えられることだなあと思いながらも、ここで妥協したら後できっと後悔すると思い、次の年の平成13年度も完全分離型で申請しました。県のヒヤリングでは、夜の職員体制はどうするのかとか、これでは、箱型施設に比べたら建設費もかなり増えるがそのための自己資金は準備できるのか、入所者が3つの建物に分けると職員の数もかなり多く必要になるが、その人件費はどうするのかなどと根ほり葉ほり質問されました。しかし、それらの質問は、事前に予測していた質問どおりだったので、用意していた答えで県の担当者を納得させ、入所者の人権を守ることや当たり前の暮らしを第一に考えたらこのような間取りしか考えられないと主張しました。結局、県の担当者は、「すごくユニークでおもしろい計画ですね。このような形態の施設は県内には全くなく、全国的にも珍しいケースだと思いますが、これからの時代は、ノーマライゼーションの理念の下に普通の家庭のような暮らしが求められます。県としても、国にこれで行けるようにできる限り働きかけてみましょう。」と応援を約束してくれました。県の担当者によると、国のヒヤリングでも管理面についてかなり突っ込んだ質問を受けたそうです。そして、平成13年12月、ようやく国から、内示をいただきました。

「サンガーデン鞍手」開所《平成14年~15年》

そうして、平成6年から紆余曲折を経ながらも、ようやく平成14年12月、念願の入所更生施設の建設に着手することになりました。施設名は、「サンガーデン鞍手」。この名称は、公募により決定しました。名付け親は、ゆたかの里の利用者とそのお兄さんです。選定にあたっては、これからの福祉のあり方等をふまえ、以下のことを基準としました。①「~学園」、「~園」などのいかにも福祉施設と思えるような名称は避ける。②覚えやすい名称。③親しみのわく名称。④言いやすい名称。⑤あまり長くない名称。⑥大人の施設なので、「たんぽぽ園」のような子どもっぽくない名称。⑦この施設は、障害者の「生活の場」なので、地域住民が違和感を感じることのないよう、できればマンションや住宅地などが思い浮かべられるような名称、です。そして、たくさんの公募の中から、この名称を選択した理由は以下のとおりです。まず、サンガーデンの「サン」は、太陽を表し、利用者の方々が明るく陽気に暮らせる施設になるようにとの願いが込められています。また、この施設は全居室が南向きの間取りとなっていて、太陽の日差しを満喫できるという施設の状況をアピールするという意味合いも込められています。次に、サンガーデンの「ガーデン」は、庭を表しています。この施設では、ノーマライゼーションの理念に基づき、できる限り普通の家の暮らしを志向しています。そのため、この施設はグループケアユニット方式をとっており、3棟それぞれの居住棟に玄関や勝手口があり、庭があります。ガーデンという名称は、このような「庭付き一戸建て住宅」という施設の状況をアピールするものです。また、施設開設後の運営においても、利用者が一地域住民としての普通の暮らしを志向していける場にしていきたいという決意の表れでもあります。最後に、サンガーデン鞍手の「鞍手」は、言うまでもなく施設所在地の郡名であり町名です。この施設が地域に開かれた施設として、しっかりと鞍手の地域に根を下ろし、地域住民から支えられ喜ばれる施設へと育ってもらいたいという思いが込められています。平成14年12月に建築を始め、平成15年6月に完成しました。そして平成6年から10年間の運動の歳月を経て、平成15年8月1日、ようやく念願の「限りなくグループホームに近い入所更生施設」のオープンが実現しました。

「サンガーデン鞍手」の方向性《平成15年~将来》

サンガーデン鞍手は、1棟10名定員です。10名の生活は、やはりまだまだノーマルとは言い難いです。できれば4名から7名程度の規模での生活が望ましいと考えています。そこで、1階2人部屋4室、2階個室3室のこれら7室をすべて個室にして、1棟7名での生活を単位としたいと考えています。そのためには、まずは、各棟4名ずつ、3棟合計12名を、施設との契約を継続した状態で、地域に無認可のグループホームを開設し、希望する人から地域生活に移行していただきたいと思います。
私たちは、「入所施設という制度の下でのグループホーム」として「サンガーデン鞍手」の建物を立ち上げました。私たちの最終的な目標は、「入所施設という制度の下での障害者地域生活支援センター」へと「サンガーデン鞍手」の機能を、変革していくことです。「サンガーデン鞍手」では、毎年10パーセントの入居者を、当事者が望んでいる地域でのあたりまえの生活に移行させていきたいと考えています。そして、最終的には、施設入所者をゼロにし、「入所施設という機能の解体」を目指してしていきたいと思っています。もちろん、「サンガーデン鞍手」は、今後、施設から地域生活へ移行する人々に対しては、十二分な支援体制を責任を持って担っていきます。